活火山である『浅間山』~『白根山』の北西に掛けて、昭和初期まで『硫黄鉱山』が幾つか在りました。
『硫黄』の採掘目的は『火薬材料』です。『マッチ』の需要もそうですが、一番使われたのは『弾薬』 そう『戦争』の為です。
先日、母のアルバムを見ていたら、若かりし頃の母が暮らした『小串鉱山』の写真が出てきました。
須坂市に出生した母は、戦争で父を亡くし、一家揃って『鉱山会社』の労働者募集に応じて『小串』に移り住んだそうです。
当時の『小串』は大勢の鉱夫とその家族が暮らす『街』が形成され、『分校』『診療所』『食堂』『銭湯』や『映画館兼芝居小屋』なども在ったそうです。
母は其処の『床屋』で働いていたと聞いた事が在ります。
私が子供の頃、母が髪の毛を切ってくれました。『手動式バリカン』で丸坊主にされながら、「何でバリカンが家にあるの?」と尋ねた時、『小串』の話をしてくれました。
誰が撮ったのかも記されていませんでしたが、噴煙を上げる『浅間山』の位置から考えると『小串岳』から『小串の街』を見下ろしているようです。
『鉱口』から延びる『トロッコ』の線路が、『策動』への積み替え処迄伸びているのが観えます。
『策動』で『毛無峠』迄運び上げ、トラックに乗せ換えて『高山村』~『須坂』~『北長野貨物基地』で貨車に積み替えたそうです。
この『トラック』に載せてもらって『須坂』に出るのが何よりの楽しみだったとか。
其処で『親父』と出逢ってゆくゆく私が生れるんですけど。
当時は『バス』の代わりに『乗合馬車』が『須坂』と『小串』を結んでいたそうで、片道3時間掛けてデートしてたそうですけど、今なら飛行機で『台湾』辺りまで行けちゃう。
この街は今はもう存在しません。
鉱山の閉鎖に伴い『全ての建物』や『坑道口』を爆破解体したそうです。
犯罪者の隠れ場所に成ったり、鉱山を掘り返したりできない様にする為の処置だったそうです。
その後『四駆愛好者』の格好の舞台になってしまい道路も閉鎖。『毛無峠』から片道1時間45分掛けて登山道を歩くのが唯一の交通手段です。
現在確認できるのは『通風孔』の『セメントドーム』と『策動』跡の『鉄塔』『お地蔵様』だけです。
今まで何度か訪れていますけど、『毛無峠』から『小串』まで下った事は在りません。
足腰丈夫なうちに行ってきますか。