何のこっちゃ? と思うでしょうけど、早い話が『用水の取り入れ口』の事です。
現在の農耕地は、先人の苦労の賜物です。
その昔、此の地に用水を引き、広大な田園地帯の耕作を計画した人達がいます。
佐久の地に於いては『市川五郎兵衛』
『上州南牧村字羽沢』の小領主の家に産まれ、武士として『甲斐・武田家』家臣として働くが、徳川政権の時に帰農し佐久に移住。御領地として良質な『米』の穫れていた農地を如何に拡大するかを徳川幕府に稟議し、『徳川家康』から直々に開発許可の朱印状を取り付けます。
『千曲川』や『湯川』の浸食作用によって取り残された丘陵地帯に如何に『水』を廻すか?
先ず第一に『湯川』に『頭首工』を築き、用水に水を取り込む事によって、本来の『湯川』の川面より高い位置を保って水をながします。
最初に手掛けた『常木用水』によって『佐久平駅以西』から千曲川迄の広大な面積に『市村新田』を造り上げる事に成功します。次に『湯川左岸』にも頭首工を築き『四ヶ用水』を造り『三河田新田』を造成する事に成功しました。

そして千曲川西岸の丘陵地帯に目を付け『鹿曲川』に『頭首工』を造り水を引き廻せば『浅科』全域を田園地帯にすることが出来ると考えます。『トンネル』や正確な『水勾配』の用水路を引き廻し、出来たのが『五郎兵衛用水』です。(三つとも五郎兵衛さんが設計したんですけどね)

湯川に堰を造り、『常木用水の頭首工』がこの写真の足元部分(右側コンクリート)です。
此処から取り入られた水は『ヒカリゴケ』の洞窟前を通り、『佐久大学』北を廻って高速道路の手前辺りで各方面に分岐します。
実は此の『高速道路』と『カ〇ンズ』の間に自然水利の河川がながれているのですが、水位が低い為、田んぼに引き込むには揚水ポンプが必要になってしまいます。
『湯川』に『堰』を造ると『魚』が遡上できなくなるので『魚道』と呼ばれる『階段型水路』を設けていますが、100%の遡上が期待できる訳では無いそうです。(ダメじゃん)
改革の為には多少の犠牲………の考え方なのかなぁ。

頭首工近くに石碑が並んでいます。

『活水碑』と刻まれています。文面はイマイチ読めませんでした。
佐久教育委員会さん。出番ですよ。