五稜郭

 

 ご存知『星型=五角形』の堀を持つ西洋式築城形式で、『戊辰戦争』の最終舞台『函館五稜郭』はつとに有名ですが、佐久にも在るの知ってます?

 

 『龍岡城五稜郭』 

 

 江戸時代末期、『三河奥殿藩・八代目藩主』の『松平乗謨・のりかた=後の 大給恒・おぎゅうゆずる』は、京都=江戸を駆け巡る戦火(尊王攘夷)を逃れる為、幕府御領地の『信濃田野口藩=現・佐久市田口』に移転・築城を計画しました。

 

 『函館』に築城された『西洋建築技術』を取り入れた『五稜郭』に学び、日本に二つ目となる『星形の城』を造ろうとしました。

 

 工事人足の為の『台所』を一番先に建設し、『整地』と『堀の石垣』を造っている最中に『大政奉還』、 『江戸幕府』から『明治政府』へと時代は変化しました。

 

 『明治政府』は諸外国に追いつく為の思い気った政策(富国強兵・中央集権)を次々と敢行、『廃藩置県』や『廃城令』を発動し反政府軍の拠点になりそうな城をの破壊命令と、それ以降の築城を一切禁じました。

 

 故に『龍岡城五稜郭』も建築途中で『明治』になり、お堀の五角形の石垣も完成する事無く工事は中止。整地された広い土地は『田口小学校』へと転用されました。

 

 長い間『小学校』として使用され、『五稜郭』を訪れた観光客も普通に校庭の隅に残った『台所』や『田口招魂社』『公衆トイレ』(学校の敷地内に在り、生徒が掃除していてそうです)を見学・利用していました。

 

 私の通っていた『野沢小学校2年の秋遠足』が『新海三社神社』&『龍岡城五稜郭』で、休憩(水道を借りる為?)している私たちの前で『田口小学生』がグラウンドを走っていたのを覚えています。

 

 最近になって『臼田小学校』に合併された為、ようやく観光開発が許可されるに至りました。

 

 新聞に『お堀石垣修復工事』の記事が載っており、当時工事に携わった人の名前が発見されたと書かれていました。

 

 修復工事の為に『お堀の水』を抜き、調査の結果名前を刻んだ石が在ると分ったそうです。

 

 

 新聞を読んだ数日後の店休日、カメラを持って五稜郭を訪れるとお堀には薄っすらと氷が張っていました。上の写真、内側の石積み(左側)と外側の石積みの表面が違うのが見て取れます。

 

 

 校舎の建っている付近は『土嚢袋』で仕切られ、ポンプで水が抜かれています。更に重機が走行できるように『鉄板』が敷かれています。

 

 一応『五稜郭であいの館』の方に撮影許可を頂いたのですが、工事の人は何処にもいない……立ち入り禁止になっていなかったから『自己責任』って事で。

 

 

 段差を降りる時「どっこいしょ」と口に出るのは歳ですね。

 

 

 綺麗な『切込み接』の石積みは工法として一番新しい手法です。

 

 『江戸時代』には石工によって『鑿と玄翁』だけで真っ直ぐな直線が伐り出され、接合面はぴったりと合っています。近年では『石のこぎり』で平面を伐り出すそうです。(角の石は後に手直しされたのでは?)

 

 

 土手の内部に貯まる水を排水する為の『排水口』でしょうか。

 

 現代でも『ブロック積み』の法面などでは、『塩ビ管の排水口』が見られます。

 

 『排水口』は土中に貯まった水を排出する為で、これをしないと一挙に石垣が崩れたり、内部の土砂が流れ出てしまうそうです。

 

 

 此れなんか、内部がスカスカの状態です。 普段水面下で見えなかったから発見されて良かった。

 

 

 他にも土手に植えられた樹木の根が成長し、石積みの間から顔を出しています。これも崩壊の原因のひとつですかね。

 

 人名が刻まれた石ってどれだろう?と探しましたが解らない。冬の暮れ掛る時間が気になり、気が急いて見落とした?

 

 次回に続きます。