道路原票

 

 道路を走っていて目にする『〇〇迄何㎞』の道路案内。不思議に思った事在りません?

 

 高速道路を走っていて次の『SA』や『IC』迄、この標識から何㎞と書かれていれば納得ですが、地名で書かれている場合、一体何処の地点を示しているのか。

 

 例えば『ぴんころ地蔵』参拝後に『別所温泉』へ行こうとしたとします。

 

 『カーナビ』に『別所温泉』と入力すると『別所温泉駅』や『別所温泉駐車場』などから選択する筈です。

 

 国道18号線などを走行中に『上田市・〇〇㎞』などと書かれている場合、標識の建っている場所を起点にしていますが、目的地は『上田の何処?』

 

 大抵の場合はその地域の『官公庁舎』、県庁所在地では『県庁舎』前、 市町村の場合は『市町村舎屋』前を示す場合が多いみたいです。

 

 が『長野市』の場合、県庁が在るにも関わらず、目的地となるのは『善光寺』の門前になるみたいです。

 

 『善光寺の門前』には『長野市・道路原票』が在るからです。

 

 江戸幕府が制定した『街道制度』 『江戸日本橋』を起点に『五街道』が制定され、『関所』の他にも『本陣』『宿場町』『問屋場』など細かな決まりが設けられました。

 

 時間経過と共に『五街道』以外にも準ずる幾つもの『街道』が整備されます。

 

 例えば『中仙道追分宿』から分岐して『長野・善光寺』迄を結ぶ『北国街道』(正式には『北国脇往還』)も造られました。一般には『善光寺』に参拝する人が多かったから『善光寺街道』とも呼ばれたそうです。

 

 交通手段のメインが『徒歩』であった為、防犯上から日没までには『宿場』に辿り着かなければならず、おおよその目安にしたのが『一里塚』です。(一里≒4km) 江戸時代の旅人は一日八里、健脚家で十里(40km!)~十ニ里も歩いたそうです。

 

 東海道を順調に歩いて旅すると『江戸=京都(≒495km)』は2週間掛るのが普通で、橋の無い川の増水時などは『川止め』と云って通行出来ず、更に日数を要しました。

 

 その為『冬期』以外では『中仙道』を選ぶ旅人も多かったそうです。

 

 最終目的地まで、後どの位の距離か、何処で宿泊するかなど予定を立てる為にも『目的地=道路原票』が必要でした。

 

 

 佐久市にも『道路原票』が在るのをご存じですか?

 

 場所は『岩村田』の『岩村田交差点』の脇、電柱に隠れる様に建っています。

 

 この交差点は今でこそ『餃子直売所』で有名ですが、『旧甲州街道』と『鼻顔稲荷』経由の『下仁田街道』の交点として栄えた場所でした。

 

 更に『岩村田宿』は、『甲州』の人が『善光寺』を目指して歩いた『佐久甲州街道』も合流する『中仙道一栄えた宿場町』だったそうです。

 

 その後に『廃藩置県』や『市町村精度』が発令され、『佐久市役所』も建てられましたが、道路上では『佐久道路原票』が佐久の起点になっています。

 

 

 何となく文字が彫られているのですが、光の加減も在って読み取ることは出来ませんでした。

 

 『佐久教育委員会さん。出番ですよ~』

 

 もし『佐久市まで〇〇㎞』の標識を見掛けたら多分此処を示している筈です(違うかも……責任持てません)